資生堂×ファッションが輝いていた時

文/平山景子(元『花椿』編集長)

2025.7.24

1976年は私にとってファッション元年である

資生堂で『花椿』の仕事をしながら「なぜ」という疑問にぶつかっていた。宣伝部の会議で話題になるのは口紅の色であり、ファンデーションの質感であり、女性が関心のあるファッションのことは誰も話していなかった。70年代のその時期、資生堂は飛躍的な伸びをつづけていたし、それでもよかったのかもしれないが、時代は確実に変わりつつあった。70年に『anan』71年に『non-no』が創刊され‘‘アンノン族’’という言葉が登場した。これらの雑誌はファッションを前面に押し出したが、そのファッションは服だけではなく、女性のライフスタイルから生まれたファッションというところが、 これまでと異なっていた。「キャリアウ ーマン」「女性の時代」といった言葉が頻繁に聞かれるようになったのもこの頃からである。資生堂が1975年に「資生堂ザ・ギンザショップ」をオープンしたのも、そうした行動の多様化が始まった女性のニーズを読んでのことだったと思う。

大野宣伝部長の返事は早かった

私は大野良雄宣伝部長(当時 *1)へ企画書を提出した。唐突だったけれどこれしかないと思った。

「化粧品メ ー カーにとってファッションと結びつくことは、 女性のおしゃれを考えるうえで当然のことと考えます。今やライフスタイルという新しい考え方でファッションを含めた社会現象が理解されようとしています。パリでは若いデザイナーたちが台頭して彼らも同じような発想のもとにファッションを発表しています。彼らはアンチコンフォルミスト(非画ー主義者)として注目され、これからのファッションの方向を示す人たちです。今女性たちはそれぞれのライフスタイルによって何を着るか、どんな化粧をするかを決めます。このような考え方をもとにキャンペーンができないでしょうか」

企画書は原稿用紙に書いたメモのようなものだったが、大野部長からの答えは早かった。「販売部と連絡をとって進めるように」というもので私にとっては嬉しい誤算の出発だった。

もともとこの提案はデザイナーの鳥居ユキさんから、パリのジャン=ジャック・ピカール(*2)を紹介されたことがきっかけだった。1975年からパリコレに参加していた烏居さんはピカールを広報係として仕事をしていた。私は新進気鋭のピカールが語るパリコレの新しい動きを聞きながら、世界のどこでも若い世代の新しいエネルギーが活動を始めようとしていると思った。

1976年7月、ジャン=ジャック・ピカールが別件で東京へ来ていたとき、大野部長に紹介。資生堂で最初の会議をもった。そこでは8月にパリでデザイナーたちを選んで契約。10月のパリコレでデザイナーたちの作品を選ぶ。日本でのファッションイベントは、1977年1月の春にキャンペーンと連動して行う、という大筋が決まった。

*1 大野良雄/東京都出身。1939年に資生堂に入社。1975年取締役宣伝部長、1972年取締役、1982年2月に副社長、1984年社長就任。常務・専務在任時には、外国担当として米国資生堂を立て直し、フランス、西ドイツなどの国際部門拠点づくりに尽力し、海外展開に力を入れた。1987 年65歳で逝去。(写真は著者提供)

*2 ジャン=ジャック・ピカール/パリの若手デザイナー、ティエリー・ミュグレーのプレストとして活躍していた。

パリで6人のデザイナーたちに会った

8月中旬、チェイン部の大川課長(当時)と私はパリヘ飛んだ。ジャン=ジャック・ピカールは 10人のデザイナーを候補に選んで待っていた。私たち資生堂としては、ショーのデザイナ ーたちはグループで、というコンセプトを立てていた。それは1人のデザイナーではなく、強力な個性をもつ若いデザイナーたちがつくり出す新しいファッションを期待していたからだ。大野部長からは誰も知らない新人ばかりではなく、1人は日本ですでに知られているデザイナー、そしてもう1人は女性のデザイナーを入れるという要望が出ていた。最終的には日本でも知られているデザイナーとしてジャン=シャルル・ド・カステルバジャックが、女性デザイナーとしてアンヌ=マリー・ベレッタが選ばれた。その他はダン・ベランジェ、ジャン=クロード・ド・リュカ、クロード・モンタナ、ティエリー・ミュグレーで、6人が決まった。

会場で配布されたパンフレットより。上からアンヌ=マリー・ベレッタ、ダン・ベランジェ、ジャン=シャルル・ド・カステルバジャック、ジャン=クロード・ド・リュカ、クロード・モンタナ、ティエリー・ミュグレー。

パリコレで6人のデザイナーたちはほとんど無名だった

そして10月のパリコレ本番。これまで私はパリへは一度来たことがあるだけで、パリコレは体験していなかったのでとても緊張していた。そして選ばれた6人のデザイナーたちのことも正確に理解しているとはいえなかった。そのときジャン=ジャック・ピカールが東京での「6人のパリ」に最も重要な人物として紹介したのがメルカ・トレアントン(*3)だ った。メルカは50年代にスキャパレリのモデルとしてファッション界に入り、その後『ELLE』、『marie claire』のファッションジャーナリストとして働いたという経歴をもつ人だった。彼女の経験と才気煥発なファッションに対する意見は、6人のデザイナーの信頼を得るのに十分だった。私は彼女と共に行動しながら初めてパリコレを観た。デザイナーたちの服のポイント、素材の特徴から、ショーの組み立てまでを説明してもらった。メルカの鋭い眼に鍛えられながらファッションの奥深さを学んでいった。このときから私のファッションは始まったといっていいのでは。

 

*3 メルカ・トレアントンはパリのファッション界の大御所として活躍していた。『花椿』ではコレクション企画等を執筆。(筆者提供)

パリのジャーナリストたちとのパーティー

パリコレが終わった直後に、パリのファッションジャーナリストを中心とした資生堂主催のパーティーが行われた。シャンゼリゼー近くのサントリーの日本食レストランで立食という気軽な形式。ジャン=ジャック・ピカールとメルカ・トレアントンの手腕でフランスの新聞雑誌の編集長、関係者のほとんどが出席したが、この時点ではパリのジャーナリストた ちは、6 人のデザイナーたちをほとんど知らなかった。そして 6 人のデザイナーたちは誰も日本へ行ったことがなかったのだった。
このパーティーはフランスの新聞雑誌に紹介され大成功をおさめたが、フランスの人たちは資生堂を知らなかった。大野部長が長らく温めてきたフランス進出の門出の日であり「資生堂」が「SHISEIDO」になった夜だった。(後篇へつづく)

ーーー

平山景子 /Keiko Hirayama

資生堂宣伝部入社。『花椿』の編集に携わる。「6人のパリ」(1977年)を提案。資生堂とファッションのつながりをつくった。1992年『花椿』は、クリエイティヴな人々の発掘とビジュアルな表現によってFEC賞(ファッション・エディターズ・クラブ)特別賞を受賞。ザ・ギンザ・アートスペースでは「パンク」展、「モッズ」展、そのほか写真展などを企画。著書に『パリコレ51人』がある。

 

*写真(表紙画像)/有本怜生