
前編からよむ
東京でのファッションショーは強烈な印象を残した
「6人のパリ」は、私の予想を超えて1977年1月24日の東京を皮切りに大阪、名古屋、札幌、福岡、仙台、広島と全国7都市での開催と大きなイベントになっていた。
1月24日初日のプレスショーは、帝国ホテルで開催。駐日フランス大使夫妻、東京のファッションデザイナー、新聞雑誌関係者を中心に招待した。ショーはパリコレと同じ演出で見せるというフランス側の意見に沿ったもので、シンプルで力強い内容だった。6人のデザイナーたちはいずれも強烈な個性を発揮して東京のファッション関係者を驚かせた。そしてその反響は予想以上だった。



日本の新聞雑誌の反応も初めての体験で熱かった。
「ビッグで自由な服…素足か同じく踵の低いサンダルを履いたものがほとんどで、ハイヒールを捨てて元気に闊歩しようとでもいいたげ」(産経新聞)
「豪華、典雅なディオール、サンローランら大御所の行き方と変わって、これは自由に、健康的に、身近に感じられる新しいファッション。6人のショーにヤングの熱い目。ファッションショーといえば、どこかさめた目があるのが観客反応なのだが、これはヌーベルバーグといわれる新しい傾向を見きわめようと、熱っぽい視線が次々披露される作品にむけられ、会場の空気も生き生きしていた」(中日新聞)。
デザイナーたちは瞬時に有名人になった
6人のデザイナーの服を着たモデルたちは、自信に満ちた歩き方だった。パリコレのシンプル だが共感を呼ぶ演出。すべてが初めてで見る者をまったく新しい世界へ誘った。
初回のショーが終わった瞬間から6人は“有名人”となった。彼らは資生堂がスポンサーとなっていた日本テレビの「おしゃれ」に出演。文化服装学院を訪問し、学生たちの熱烈な歓迎を受けた。そんな経験を味わった彼らはこの後どのように成長していくのだろうか。それ は資生堂への責任として私がずっと感じてきたことだったがティエリー・ミュグレー、クロ ード・モンタナたちは新人からすぐにパリコレを代表する存在となっていった。メルカ・トレアントンはパリのファッション誌で、彼女の東京での仕事が「6人の子馬とその母」というタイトルで紹介された。それに対して彼女は「私は日本へ行ったこともなかったけれど、私をその気にさせたのは大野さんをはじめとする資生堂の人たちのリスクを恐れない姿勢に打たれたからです」と語った。


春の宣伝キャンペーンと連動した「6人のパリ」
1977年春、宣伝部はファッションイベント「6人のパリ」と並行して、新進デザイナーたちの若さと自由な発想から春のキャンペーンのタイトルを「マイ ピュア レディ」とした。ポスターはカステルバジャックの鮮やかなレッドとブルーで切り替えたフード付きのジャケットを、モデルの小林麻美が着ている。「たてまえや形ではなく自分自身から出発する生き方。それをピュアと呼びたいと思います。動いて美しいファッションを。個性にすなおなメイクアップを。あなたをピュアレディと呼ばせてください」。明らかに発想の転換があって女性の個性をファッションで表現するという姿勢が新鮮だ。

ファッションがベースの2回目は「うれしくて、バラ色」
「6人のパリ」の後も資生堂はファッション路線を継続していった。1977年秋冬のキャンペーンは「うれしくて、バラ色」。このときは東京で4日間、大阪で2日間ショーを開催した。メルカ・トレアントンはパリから18人のデザイナーの服を持ち込み、ファッションと化粧の組み合わせから生まれる自由で楽しい世界を作り出そうと語った。

写真/十文字美信

写真/十文字美信
1978年秋は「君のひとみは10000ボルト」。デザイナーは高田賢三を起用。愛らしくケンゾーらしい赤のミリタリールックをモデルが着て登場した。
1981年春は三宅一生がデザイナーで「ニートカラー」。シンプルなファッションがさわやかな風を運んでくれた。
セルジュ・ルタンスのアーティスティックな世界
1980年には、福原義春元名誉会長の念願でもあったセルジュ・ルタンスが資生堂と契約。香水を含めたメーキャップ化粧品のイメージクリエーターとなった。ときを同じくしてパリに「資生堂フランス」が設立した。
「6人のパリ」を契機として資生堂化粧品の優秀さがパリをはじめヨーロッパで知られることになった。資生堂はその後も、パリコレで新人としてデビューしたジャンポール・ゴルチエ、マルタン・マルジェラたちに資生堂化粧品を協賛していった。資生堂ビューティークリエイションセンターのメイクアップアーティストたちは今日までパリコレに参加している。
私は新しい世界を求めて動いた
資生堂とファッション。山田勝巳(当時「ザ・ギンザ」社長)は「6人のパリ」は「資生堂のファッションイメージの形成に大きな貢献をはたした」と書いてくださったが(『ザ・ギンザ ひとつの時代』)、私にとってはすべてが初めてのことだった。その出発から先頭に立って動かれたのは大野部長(元社長)だった。「6人のパリ」は資生堂にファッションマインドを導入すると同時に、資生堂がその誕生からインターナショナルな文化を培ってきた会社であることを印象づけることができたイベントだった。

(写真は2008年12月)
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平山景子 /Keiko Hirayama
資生堂宣伝部入社。『花椿』の編集に携わる。「6人のパリ」(1977年)を提案。資生堂とファッションのつながりをつくった。1992年『花椿』は、クリエイティヴな人々の発掘とビジュアルな表現によってFEC賞(ファッション・エディターズ・クラブ)特別賞を受賞。ザ・ギンザ・アートスペースでは「パンク」展、「モッズ」展、そのほか写真展などを企画。著書に『パリコレ51人』がある。