Crab dancing in the wind

詩/マサクニ

2025.8.1

おれが歩いている

おれが歩いていると

 

カニが飛んできた

 

風に乗って

何匹も何匹も飛んできた

 

手を広げると

カニのこうらが右手に当たり

おれはきゅうり

を思い出した

 

子どもの時にさ

台所でおばあちゃんときゅうりを洗っていたんだよね

(って今もおれは子どもだけど)

 

洗っているとさ

ザラザラして

おれは、いたいといった

おばあちゃんは、いたくないといった

 

おばあちゃんのタンクトップ

から

のぞく

にのうで

おばあちゃんのうでのしみ

しょうゆ

きゅうりつけて

かっぱ巻き

 

ほら

風にのって

何匹も

何匹も

カニ

 

このしゅんかん

 

学校のこととか忘れられた

あいつのこととか忘れられた

 

でも

 

学校のこととか忘れられた

とか思った時点で

おもいだした

 

コトトカ

カカトノコトトカ

 

けっきょく気持ちはいま学校にある

教室の水槽にはカニがいて

おれのいない机をじっと見ている

 

おれがあるいている

おれがあるいている

 

風に舞うカニは

おれより自由だ

選評/金井万理恵(暁方ミセイ)

 

台風の詩かな?と思ったのですが、なんとなく、カンカン照りの夏の日にぶわあっと大きく吹く熱風のほうが合いそうな雰囲気。いきなり「僕」を俯瞰的に見ている描写から入って、単なる日記的文章ではないぞと思わせます。

強風のなか、飛んでくるカニたち。甲羅の質感がきゅうりへ、きゅうりは祖母の二の腕のしみへと、随分アクロバティックな連想を繋げて、かっぱ巻きに辿り着くと、唐突に途切れます。学校のことを思い出したかと思えば、急に言葉遊びを始めて。不思議な展開です。でもたしかに、歩いているときの思考ってこんな感じかも?外界から絶えず刺激を受け取り、それが自分の中にあるものと次々に反応して……。

冒頭で漢字だった「歩いている」が、最後はひらがなになっているのも気になるポイントです。思考が、歩行のリズムそのものになってきた感じでしょうか。

学校に何か嫌な思いのある「おれ」は、カニのほうが自分よりも自由だと言います。水辺を自由に歩き回るはずのカニが、空中を舞う。常識を打ち砕きたい、生きる場所をもっと自在に選びたい、そんな思いが滲んでいるのかもしれません。

でも、このカニたちは詩人の内側からやってきたもの。「おれ」は知らないが、実は人には想像力という何にも負けない自由の翼があるのだと言っているようにも、わたしには思えました。