Photographic Dialogue with International Female Artists vol.2

文/深井佐和子、写真/山本康平

2026.9.4

開催日時:3月6日(金)

参加者:
マルティネ・スティグ(写真家)
細倉真弓(写真家)
深井佐和子(編集者、キュレーター)

「Photographic Dialogue with International Female Artists」は、写真家やキュレーターなど、イメージメイキングに携わる女性たちが、それぞれの立場や視点を交わす国際的な対話プロジェクト。第2弾となる今回は、オランダ人写真家マルティネ・スティグと日本人写真家・細倉真弓による「視覚と身体」をテーマにした対話を行った。スティグは、赤外線カメラなどの特殊な撮影機材を用いた作品を通して、人間の知覚のあり方を探究してきた。一方、細倉は身体を主要なモチーフとし、触覚的な視覚を軸に、身体と性、人間と人工物、有機物と無機物など、揺らぎ続ける境界を写真や映像によって表現している。私たちの視線はデジタルデバイスのカメラを通したまなざしと同一化してきたが、私たち自身を見つめる視線はいかにして自律性を保ち続けることができるのか。二人の対話は、私たちが現代において、日常生活からコンセプチュアルな実践まで、「身体」をどのように捉え、向き合っているのかを問いかける。

 

 

深井佐和子(以下、深井):今回は、マルティネ・スティグさんと細倉真弓さんをお招きしました。写真を主な表現手段とする女性アーティストとして、それぞれの視点を交わしながら、身体や視線、そして特殊な機材や手法を用いた写真表現——フィルムやデジタルだけでなく、映像やコラージュも含めて——について語り合えればと思います。

 

それでは、まずマルティネさんの作品から見ていきましょう。マルティネさんはアムステルダムを拠点に活動し、視覚芸術とポストコンテンポラリー実践の修士課程で約15年間教鞭を執っています。

 

マルティネ・スティグ(以下、MS):はい。この《HEAT》は近作で、赤外線サーモグラフィ(Infrared Thermography/IRT、赤外線放射を用いて物体の温度差を可視化する技術)で撮影された映像作品です。つまり、光ではなく対象の熱を捉えています。これは、美術館で私の娘たちがコンクリートの床の上でじゃれ合っている場面です。映像作品ですが、一瞬を切り取ると二人が一体の奇妙な生き物のように見えてくる。コラージュではありませんが、結果としてコラージュのような効果が生まれ、人体がまったく別の形へと変化して見えるのです。

 

私が関心を持っているのは、私たちが人体、とりわけ女性の身体を、輪郭の明確なひとつの「solid(固体)」として捉えがちなことです。しかしサーモカメラで見ると、身体の輪郭は温度によって絶えず変化し、溶けるように移ろい、床や壁には熱の痕跡が残っていく。身体を「自律的で固定された存在」とみなす考え方を、少しずつ開いていくような撮り方なんです。

 

もうひとつ紹介するのが、《NEAR》というシリーズです。一般的なデジタルカメラのセンサーは、本来、人間の目よりも広い波長域を捉えられますが、製造段階でUVフィルターと赤外線フィルターが取り付けられ、その領域は制限されています。私は技術者に依頼して、それらのフィルターを物理的に取り除いてもらい、人間以上の範囲を捉えられるフルスペクトラムのカメラに改造しました。そこへ今度は別のフィルターを一枚取り付け、人間が見ている可視光だけを遮断する。すると、私たちには見えないけれど確かに存在している光だけが写るようになります。

 

シリーズでは、人間の可視領域からわずかに外れた波長——機械や鳥、蜂には見えても、私たちには見えない光——によって、自分の身近な環境を撮影しました。自然の断片や子どもたち、身のまわりのものを撮っていくと、光の振る舞いが変わるため、皮膚を通して血管が見えたり、木々が白く発光しているように見えたりします。人の皮膚が蝋のように見えてきて、空間の奥行きの感じ方も変わります。色は私が決めているのではなく、カメラが自動的に決定しています。カメラを改造しているため、本来のホワイトバランスは機能せず、ランダムなプリセットを用いることで、この独特で奇妙な色彩が生まれています。

 

私が惹かれているのは、自然と人間の境界が揺らいでいくことです。人間はサイボーグのように見え、逆に自然は血液や血管のように見えてくる。藻におおわれた川は、まるで体内の風景のようにも感じられるのです。

深井:ありがとうございます。細倉真弓さんは2008年頃から作品を発表し始め、当時は若い写真家仲間や友人たち、自然や日常を撮影していました。これは2012年に刊行した写真集『KAZAN』です。この暗室で焼かれた青みがかった色彩は、細倉さんを象徴する「色」でしたよね。現在はデジタルが中心ですが、初期作品の要素は今も数多く残っています。とりわけ、人間の身体と自然を等価に捉える視点です。そこにマルティネさんと共通する視点を感じます。

 

細倉真弓(以下、細倉):制作を完全にデジタルへ移行したのは2019年頃でしたが、扱っているテーマは最初から変わらず、人間の身体です。

 

2019年に発表した《NEW SKIN》という作品をつくった当時は、テクスチャーを通して身体に対する視点が寄ったり引いたりする、その移動の感覚に関心がありました。当時は男性ヌードを多く撮影していたのですが、ジャック・ピアソン(Jack Pierson)のようなゲイの写真家や映画監督たちの視点から多くを学びました。私はゲイではありませんが、写真の対象として見ている男性の身体への関心を作品にできないかと考えて制作したのが、このシリーズです。それまでは自分自身の視点だけで撮っていましたが、自分が影響を受けたイメージや、社会のなかにある男性の身体への視線など、自分以外の視点をコラージュして作品にしようと考えたことが出発点でした。

 

この作品は、4種類の異なるイメージを組み合わせています。ひとつは私が撮影した男性ヌード、もうひとつは美術館に存在する男性裸体彫刻や理想化された古典的男性像、3つ目は手元にあったゲイ雑誌、そして最後がインターネット上で見つけた韓国人男性のセルフィーです。

 

深井:なぜ韓国人男性の画像だったのでしょうか。

 

細倉:当時、K-POPにとても興味があったんです。K-POPは男性の身体表現として新しい存在でした。セクシャルアピールはあるのですが、古典的な男性像とも違う。濃いメイクをしている一方で、身体は非常に筋肉質で、そのコントラストが面白かった。それに彼らはセルフィーを頻繁に撮影し、インターネット上で視線が何重にも反射し合っているような状態が、とても興味深かったんです。

 

この作品では、印刷物の網点を誇張するために、大きく引き伸ばしています。これは映像作品としても制作しました。大きなデジタルデータの中を拡大縮小しながら、視線が画像の上を移動していくような構成になっています。映像の中で画面が拡大されていくと網点やピクセルが現れたり、またが逆に画面が引いて全体が把握できるようになるとそれが人の体の一部であることが把握できたりします。一枚の画像の中に無数の視点が存在することが面白いと感じました。

これは、写真がピクセルや印刷の網点、粒子によって構成されているという話でもあります。人体が無数の細胞からできているように、写真もまた微細な要素の集合体です。見えるものと見えないもの、その両方が確かに存在しているという考え方につながっています。

 

最近は、ストレートフォトグラフィのなかに潜むテクノロジーや現象——モアレやストロボなど——にも関心があります。そうした現象によって、日常のなかに潜む現実の「裏側」のようなものが見えることがあります。

 

例えば、この本に収録した枝と蜘蛛の巣の写真は、最初は枝だけを撮っているつもりでした。しかし現像してみると、フラッシュによって蜘蛛の巣が写り込んでいることに後から気づいたんです。肉眼では見えていなかったけれど、そこには確かに存在していた。シンプルな驚きがありました。

マルティネ:カメラだけが捉えられる、目には見えない現象がそこにある、ということを示しているわけですね。それは私の作品とも通じる視点です。例えば、これは海岸の浅瀬にある岩ですが、藻におおわれた部分を近赤外線で撮ると白く写り、まるで動物の毛皮や雪のようにも見えてきます。

 

細倉:普段見えているものが、写真になった瞬間に初めて違って見える。その瞬間にすごく興奮するんです。なぜ見え方が変わると、こんなにも興奮するのでしょうか。

 

マルティネ:自分には見えていない世界の豊かさに気づかされるからだと思います。私たちの「真実」や「現実」という考え方を揺さぶり、見えていないものに気づくことで、見えているもの以上に多くの世界が存在していることを実感する。その瞬間に、世界の見方そのものが変わってしまうのです。

 

さらに、自分が知らず知らずのうちに残している、目には見えない光や痕跡を撮影することができます。例えば、このサーモカメラでは、私たちがこの部屋を出て30分後でも、まだ熱の痕跡が残っています。つまり、誰かが後からこの部屋に入ってきたとしても、その部屋は本当の意味では「空っぽ」ではない。存在していることと存在していないこと、その境界は私たちが思うほど明確ではありません。

 

私は、この「見えているのに見えていない現実」に興味があります。固定されたひとつの現実があるのではなく、用いる技術やスペクトルによって複数の現実が立ち現れる。その考え方は、世界を豊かにすると同時に、少しめまいがするような感覚ももたらします。

 

深井:マルティネさんは以前のインタビューで、「wonder(不思議さ、驚き)」という言葉を使っていました。それが作品の核心的なモチベーションになっているということですね。

 

マルティネ:そうですね。プロジェクトごとにカメラやアプローチは変わりますが、私の作品に一貫しているのは、写真が「wonder」のための乗り物(vehicle)だということです。写真は、別の現実を開いて見せると同時に、自分自身がどの現実を選び取っているのかも示してくれます。私たちが見ている世界のほかにも、無数の異なるバージョンの現実が存在している。そのことを考えるだけで、単純にわくわくするんです。

 

細倉:なるほど。お話を聞いていて、関心は近いものがある一方で、マルティネさんと私はアプローチがまったく違うのが面白いですね。私は「環世界(Umwelt)」——動物には動物の、虫には虫の見え方があり、同じ場所を共有していても、それぞれ異なる世界を生きている——という考え方が好きなんです。マルティネさんのように、それをテクノロジーによって可視化するアプローチはとても興味深いと思います。一方で、私はもっと感覚的な方法を取っているのかもしれません。写真を編集するとき、異なるイメージをつないでいくのは、「こう見たい」という私自身の感覚なんです。強いフィーリングではあるのですが、それを支える理論や明確なバックボーンがあるわけではないので、はっきりと言語化するのはむずかしい。曖昧なものとしてしか提示できない、というのが正直なところです。

 

深井:つまり、直感が制作の背骨になっているということですね。だからこそ、観客に伝わるものも抽象的になる。でも、その「ただ置く」という態度そのものが、作品を観客へと開いていくひとつのアプローチなのだと思います。

 

私たち自身の身体に対する見方も、変化してきていると思いますか?

細倉:スマートフォンを使うようになってから、「記憶の仕方」が変わったことはとても面白いと思っています。本来ならぼんやりしているはずの出来事の記憶が、写真という切り取られた形で残ってしまう。あとから思い出そうとすると、その写真を通してしか思い出せなくなる。それが何度も繰り返されることで記憶が強化され、写真によって上書きされていく。そのとき、写真は果たして「本当の自分の記憶」や「体験」の証拠になるのだろうか。むしろ写真は、とても嘘っぽいものになっていく。その逆転がすごく面白いと思っています。

 

マルティネ:実際、何かを経験している時間そのものが、以前よりずっと短くなっています。写真を撮って、それで終わりという感じで、写真の枚数のほうが、経験している時間より多くなっていく。今はまだ実体験と画像のハイブリッドな状態と言えますが、すでに画像のほうが優位になりつつあります。時には、撮った写真をあとで見返すことさえありませんよね。

 

深井:経験することを「先送り」しているような感覚もありますよね。展覧会を訪れて、15分だけその場にいて写真を撮り、「あとでじっくり見よう」と思ってしまう。でも、家に帰ってソファに座って写真を見る経験は、その場にいる経験とはまったく違うものです。かつて写真には強い証拠性があると信じられていましたが、今ではむしろ、写真は信憑性という意味で弱く、信頼できないものにもなっています。

 

マルティネ:でも、現実が写真に合わせて変化していくことには、とても興味があります。例えば、セルフィーを撮る女の子たちが、広角カメラの影響で自分の鼻が大きく写ると思い込み、整形して小さくしてしまう、ということが起きています。つまり現実そのものが、写真に合わせて変えられてしまうわけです。フィルターのない「現実」の自分を見て驚いてしまう。それは身体についての考え方や、年齢を重ねることの捉え方にも、大きな影響を与えていると思います。

深井:数十年前は、ハリウッドやランウェイが美の基準でした。今ではTikTokのような超短尺動画や、SNSにおける「完璧さ」が基準になっています。そうした参照点の変化のなかで、写真にはどのような役割があるのでしょうか。そして、写真作品をつくるとはどういうことなのでしょうか。

 

以前マルティネさんから、教えている学生たちにとっては「撮影すること」自体がひとつの達成になっている、という話を伺いました。フィルムを現像したり、スタジオで撮影したりすると、その行為だけで「何かを成し遂げた」という感覚がある。写真を撮るという物理的な経験自体が、それだけで価値を持つようになっている。

 

細倉:それはすごく共感します。実際、デジタルになってから、「何かをやっている」と実感できる作業時間がとても減りました。手を動かすこと自体への満足感がなくなってしまって、一時期はストレートフォトグラフィが撮れず、コラージュなどを試していました。手で何かをつくること自体に、良くも悪くも満足感や自信が宿っていたんだと思います。それが急になくなってしまい、ぽっかり空白ができたような感覚でした。

 

マルティネ:「撮った」という実感や、写真に対するフィードバックのあり方も変わりました。SNSでは一枚の画像への反応は「スタンプ」のようなものですが、授業では一枚一枚の画像についてじっくり議論します。それは学生たちにとって新鮮な経験です。普段はスクロールされるだけの画像について、写真の授業ではきちんと言葉で語らなければならない。

 

私はアナログ写真家として育ったので、当時、手作業は神聖なものではなく、画像を得るために必要な工程でした。それに比べると、デジタル写真はあまりにも簡単だと感じることがあります。アナログには、撮影してから現像するまでの「時間」があります。つまり、「撮ること」と「見ること」のあいだに距離がある。その時間が、より深い考察を与えてくれるのだと思います。

 

最近、ディスプレイのないデジタルカメラが登場しているのも、そのためではないでしょうか。撮る瞬間そのものに、より集中できるからだと思います。

 

深井:先日、女子高生がインスタントカメラで撮影しても、高価で手間がかかるので現像には出さない人も多い、という話を聞きました。それでも、みんなでポーズをして撮影すること自体がひとつの社会的な行為になっている。写真を見返す必要すらなく、「撮る」という集団的な行為そのものが、友情を確認し、瞬間を封じ込める儀式のようになっているのだと思います。

 

誰もがカメラを持つようになった今、すべての人が写真家になれるとも言えますが、それでも一般の人と写真家のあいだには明確な違いがあると思います。それは、画像がどのように機能するのかをどれだけ考えているか、という違いではないでしょうか。多くの人は、画像が自分や世界にどう働きかけているかを意識していません。しかし実際には、画像は世界そのものをつくっています。写真家とは、画像が人間の知覚にどう作用するかを考え続ける存在なのだと思います。

 

細倉:写真がここまで民主化された以上、写真作品をどう考え、どう進化させていくのかを考えると、コンセプチュアル・アートに近づいていくしかないのか、という気もします。でも、伝統的な写真と民主化された写真、そしてコンセプチュアル・アートのあいだには、ある「ニッチなゾーン」が存在するはずです。マルティネさんは、自分の作品をどの位置に置いていますか。

 

マルティネ:コンセプチュアル・アートに近いと思うのですが…写真にまつわる「型」は興味深いですよね。コンセプチュアル・フォトグラフィにも、TikTokやSnapchatにも、それぞれ固有のルールや儀式があります。ファッション写真やドキュメンタリー写真でも、写真家の役割はカテゴリーによって異なりますし、文脈によっても変わります。同じ画像でも、置かれる文脈が変われば、まったく別のものになります。

 

私たちは、そうした「儀式」や「ルールのセット」を実に巧みに使い分けています。SNSを使う人ほど、他人の画像を読む力も流暢になっていく。一枚の画像、あるいはテキストやキャプションとの組み合わせの背後に何があるのかを読み取る力——その意味で、私たちは画像を読む能力そのものを進化させてきたとも言えます。

 

先日、「画像を拡大すること」について授業をしていたとき、ある学生がInstagramのミーム画像を巨大なピクセルに変換しました。すると、ほとんどの学生は、その色のついた正方形だけで元の画像を当てることができたんです。まるで私とは異なる「コード」で生きているように感じました。それは彼らだけが持っている技術であり、一種の隠れた言語のようなものです。

 

深井:確かに、若い世代と画像の読み方を一緒に考えることは大切ですよね。何が現実で、どの画像を選ぶべきなのか——今や人々は、画像を言葉以上に「言語」として使い、送り合うこと自体がコミュニケーションになっています。だからこそ、その「言語」を学び直し続ける必要がある。

 

細倉:画像を捉える私たちの「センサー」はものすごく発達し、敏感になっています。一方で、そのぶん現実そのものを捉える「センサー」や身体的な感覚は、少し衰えてきているようにも感じます。

 

マルティネ:私たち二人に共通しているのは、「写し取る視線(photographic gaze)」を当たり前のものとして受け取っていないことだと思います。写真の視線が持つ複雑さを見せようとしている。カメラを通した直接的な視線だけではなく、複数の層が重なっていること——現像して初めて見えてくるものがあるように。その複雑さを示すことが、今のアーティスト写真家にとって、とても重要な役割なのだと思います。

細倉 真弓(Mayumi Hosokura)
写真家。東京を拠点に活動。触覚的な視覚を軸に、身体や性、人間と人工物、有機物と無機物など、揺らぎ続ける境界を写真や映像によって探究している。立命館大学文学部、日本大学芸術学部写真学科卒業。主な写真集に『NEW SKIN』(2020年、MACK)、『Jubilee』(2017年、artbeat publishers)、『transparency is the new mystery』(2016年、MACK)など。
http://hosokuramayumi.com

 

マルティネ・スティグ(Martine Stig)
写真家。アムステルダムを拠点に活動。特殊な撮影機材やデジタル技術を用いた作品を通して、人間の知覚やテクノロジーと身体の関係を探究している。ハーグ王立美術アカデミーおよびアムステルダム大学で学ぶ。これまでにアムステルダム市立美術館、アパチャー財団、ハウス・マルセイユ美術館などで作品を発表し、作品はアムステルダム国立美術館、オランダ写真美術館などに収蔵されている。Den Boschのマスター・インスティテュート・オブ・ビジュアル・カルチャーで教鞭を執るほか、アート財団「Radical Reversibility」の共同設立者。
https://martinestig.com/

 

深井 佐和子(Sawako Fukai)
編集者、キュレーター。東京を拠点に活動。上智大学文学部英文学科卒業後、写真ギャラリー勤務、出版社を経て独立。2014年よりヨーロッパを拠点に活動し、2018年からは東京で国内外の文化・アート・デザイン分野を中心に、編集、ブランディング、クリエイティブプロデュースを手がける。2025年より、身体と表現をテーマとするキュレーションメディア「Matterreal」を主宰するなど、さまざまな活動を行っている。
http://swtokyo.jp